Interview-P.01

科学への興味


 科学に興味を持たれたのは何歳ごろで、きっかけは何でしたか?

 私は1939年生まれですから、日本が太平洋戦争に負けた年は小学校1年生でした。母親の実家に疎開していた私は昭和20年12月に東京に戻ってきまして、一面焼け野原から日本が復興されるまでをずっと東京で見てきました。
 その当時はまだ小学校1年生でしたから、この現状を見て"どうやって生きていくか"なんて考えてはいなかったのですが、朝鮮戦争が終わった後に極端な不況がやってきました。
  高校2年の時のことです。"カラスが鳴かない日はあっても一家心中のない日はない"というほど、近所で心中が相次ぎました。その時私は"お金が無い為に人が死ななければならない"という現実を突きつけられまして、"お金がないから人が死ななければならない"不条理さを何とかしなければならないという気持ちがはっきりと芽生えました。それまでは、あの貧乏な時代にあっても、東大に行って文学をやろうと思っていましたが、そういう現実を目にして何とかしなければならないと思いました。お金がないから死ななければならないという窮状を直したい・・・「それは何か?」と考えた時「産業立国」だと思いました。

  強い産業を興して日本を豊かにしないと一家心中はなくならないと考え、進路を東京工業大学にしました。東京工業大学での1年目は物理をやろうと思っていましたが、1年過ごしている間にこれでは産業立国は難しいと感じるようになり、2年生になる時に決めたコースが電気系です。そしてその当時立ち上がってきた"エレクトロニクス"を選びました。何故エレクトロニクスなのか?と言われても、その時は分かりませんでした。ただ、新しい学問であるエレクトロニクスの未来に非常に大きい可能性を感じました。エレクトロニクスの未来に大産業が待っているのではないか、これに賭けてみようという、ある意味憧れだけでエレクトロニクス分野を選んだと言えます。

文学に進もうと思われていたのが、エレクトロニクスに変わられたわけですが、文学をやりたいと思われていた頃には、科学技術に興味はなかったのでしょうか?

 どちらかというと科学音痴でした。小学校4年までは全く勉強しない子供で、学校から帰ってきたら玄関に鞄を放り投げて暗くなるまで帰ってこない子供でした。
 しかし、あれは小学校5年生の時だったでしょうか・・・大変厳しい女性の担任の先生から初めて"強く生きていかなければならない"という事を教わりまして、先生からは「本をたくさん読みなさい」と言われていましたから、比較的本をたくさん読んだ子供ではないでしょうか。

  あの当時、焼け野原の東京は子供達の天下。遊び場がたくさんがありましたが、私はその辺にある本を手当たり次第読んでいました。高校から大学にかけては、歴史の中で成功した人としなかった人を分けたものは何だったのか・・・一生懸命本の中から読み取ろうとしていました。やはり戦国乱世、特に明治維新が大好きでした。男が一番輝いていた戦国乱世、祖国統一の時代が好きですね。明治維新に興味を持っていたので坂本竜馬が好きでしたが、その後は勝海舟かな・・・などと思い始めました。子供の頃は目立つ人が好きで政治的な深い意味なんて考えませんでしたから。勝海舟については、日本の未来の為、若い人に道を譲る為に、300年続いた幕藩体制を自分が閉じるという決断をしたわけですが、普通の人ではできなかったと思います。本当に偉人ですよね。

東京工業大学では、どのようにして研究を進められましたか?

 東京工業大学では、半導体なんていう新しい分野を選んだものですから、指導者が誰もいないわけです。自分で死に物狂いに勉強しながら、憧れだけで研究も手探りで始めました。
 それでまずテーマを決め、"何をやると世界の産業界、科学技術界に役に立つのか"・・・何が人類に分かっていて、何が人類に分かっていないのかが半導体研究の歴史が無いために分からないので、まず自分が"おかしいのではないか"と思うことを理解する研究からはじめ、そして世界の学会にせっせと論文を提出しました。誰も何も教えてくれないものですから、29歳から30歳頃までは自分のやっていることが正しいのかどうか、世界に通用するのか否かものすごく不安でしたが、とにかく論文を書きました。
 自分が分からないメカニズムを中心に研究をし、その結果を英語で論文にまとめて海外の権威ある学術誌に出したところ、全部通してもらえました。
 29才から30才頃まで、自分に分からない事を分からせる研究をやって、その結果が国際的な学術誌に掲載されたことから、自分が分からない事は世界中も分かっていないことが多いのだと気づかせてもらい、
「自分でもやれる」という自信に繋がり、その時は大変嬉しかったですね。

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