インタビュー


ステンドグラス Interview-P.01

科学への興味



科学に興味を持たれたのは何歳ごろで、きっかけは何でしたか?

 これはというものはなかなか思いつかないのですが、私が育ったのは瀬戸内で、瀬戸内海では汽船がよく通っていましてね、私の父親も汽船会社に勤めていたので、小学校の低学年の時に見せてもらった何万トンの汽船の大きな機関室の鉄の塊のような機械には感動しました。
  船長室に行くと、白いテーブルカバーの上に熱帯のフルーツが盛られているわけですよ。昭和30年そこそこの時代には珍しいバナナをもらって食べました。その時は、金属や機械に興味があったわけではなく、船乗りになりたいと思っていました。自宅には大型汽船がニューヨークのマンハッタンを背景に写っている写真のカレンダーが貼られている環境に子供の頃からありましたから、その頃は汽船に魅せられていました。

  高校生になって商船大学に入りたいと思っていたのですが、当時は裸眼視力の制限がありまして、近眼になってしまった私は船乗りになることが難しいと思い始めました。そしてその時に思い出したのが、機関室で見たエンジンの塊です。その辺りから金属や機械へと、漠然とした興味が広がっていきました。本当の金属への興味は大学へ入ってからです。未知のことが専門書や文献に細かく書いてあり、学べるわけですから、研究しようという意図はまだありませんでしたが、鉄の中の構造や組織、さらに高強度の仕組みが分かったことで、初めて生きた学問に触れた気分でした。私自身の好き嫌い、得意・不得意いろいろあったと思うのですが、そこは「何故なんだ?」ということから、自然と興味を持っていきましたね。他の学問もそれぞれ特徴があったのですが、何故に金属や機械の方へ行ったのかと言えば、やはり小さい時に見た機関室の鉄の塊への感動と「何故なんだろう」という解答が得られないままの興味が漠然と意識の中にあって、その時に合致したということでしょうね。

  私は大学が姫路で、その時に金研(東北大学金属材料研究所)出身の先生がおられ、この先生は昭和20年代に7年間ほど古河電工鰍ゥら金研に研究生で行っておられましたが、金属を学ぶのであれば日本でトップの金研へ行って研究したらどうかと勧められました。その時は、あまりその気がなく、ただ金属学会の本部が何故仙台にあるのかという疑問が漠然とあっただけです。初めて本多光太郎先生のお名前も聞いたと思います。アドバイスがあったにもかかわらず、正直申し上げて金属の研究者になりたいという気持ちはなく、金属の研究が面白かったので、もう少しやってみたいという気持ちだけで仙台に来ました。

  修士課程を修了した後、ドクター(博士課程)に進みましたが、それでも研究者になりたいという気持ちはなく、周囲の諸先輩から修士の時に既に研究者になりたいという強い志を持ってドクターを目指してきたという話を聞いた時も、自分はそうでもなかったなぁという感じをもった憶えがあります。私はそういう意味で自分の人生の先をどうこう考えてから行動するタイプではなかったみたいです。

  しかし、何故ドクターに進んだのかと聞かれたら、実は修士でやっていることが面白かったのですが、修士2年の時には就職の願書を書いていました。ところが、その締め切りに間に合わなかったというのが理由でしょうか。当時は郷里に近い神戸製鋼がいいなと思っていまして、実際に高度成長の時代でしたから、8名ほど募集があり、実際に行ったのは2名でしたから十分空きはあったのですよ。

  締め切りが間に合わなかった事で、当時、市立病院の脇の電信電話会社(現:NTT)から親に電話しましてね。ところが親は別にどうこう言いませんでした。それで自分から「ドクターが取れなかったら、中途退学してどこか就職先を探す」と言いました。すると父親が「博士課程に進学すると決めたのなら、ドクターを取るまで頑張れ」と一言だけ言いましてね、それで踏ん切りがつきました。

  今思うと、本当に日々やっている研究が面白くて、研究のことしか考えてなかったと言えますね。

研究はどのように進められていたのですか?

 ほとんど一人で自由にやっていました。その当時は、透過電子顕微鏡を使っていまして、夜中から朝までは装置があいていましたから、それを使わさせていただきました。鉄鋼の中身を覗くのが面白く、熱処理や加工したら千差万別で、鉄の中身が見られることが楽しくて、気のおもむくままに研究ができました。そこは金研の先生もお忙しいですから、いちいち学生には指示がありませんでしたし、自由にやらせてくれましたね。現在に至っても我々は、心得として”縛らない”という雰囲気があります。先生の所に行かないとアドバイスは受けられませんでしたが、行けばアドバイスはもらえましたから、そこは金研の底力というか、若い研究員にも実験させてくれて、装置は自由に使わせてくれました。 技官制度がしっかりしていまして、もう故人ですが高橋さんという電子顕微鏡室の技官は大らかで我々を大変よく世話して下さいました。

  透過電子顕微鏡を夜通し使った後は、朝の8時に当日使う人のために真空度を上げて使える状態に戻すのが最低限のルールでした。朝6時までに作業を終えて、フィルムを現像し、カセットを取り替えて、真空引きをし、高真空の状態にしておくのです。当時はフィラメントが長寿命ではないですから、朝来て、切れた状態にあるというのは絶対に許されないことでした。全部自分で修理や整備ができるようなトレーニングを踏んだ上で使う事が条件でした。



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