2018年11月16日 第158回サイエンスカフェ
合成フェロモンを使って害虫防除
講師:桑原 重文 東北大学大学院農学研究科 教授
プロフィール
1980年 東京大学農学部農芸化学科卒。
1984年 同大学院農学系研究科農芸化学専門課程(博士課程)を中退し,同農学部助手。
1990年 茨城大学農学部助手。
1994年 同助教授。
2000年 東北大学大学院農学研究科助教授。
2001年から同教授,現在に至る。
専門は生物活性を持つ微量天然有機化合物の化学合成[農薬や医薬に使えそうな有用な生理作用を持ち,天然からは少ししか得られない有機化合物の作り方(有機合成化学)を研究しています]。
開催情報
開催日:2018年11月16
日(金)18:00~19:45
会場 : 東北大学青葉山新キャンパス青葉山コモンズ ※開催場所にご注意ください
概要
昆虫の多くはフェロモンという化学物質を使って,雌雄や仲間内の様々な情報伝達を行っています。そのフェロモンを上手く使えば,殺虫剤を使わずに害虫を防除することができます。今回は,昆虫フェロモンの化学合成(作り方)と害虫防除への応用法を紹介します。
Q&A
Q. フェロモンの機能による分類で,ゴキブリはどのフェロモンに入るのか。
A. ゴキブリは人の健康に害を及ぼす可能性のある衛生害虫ですので,その防除に使えそうな性フェロモンと集合フェロモンについて盛んに研究されています。日本の家庭で普通に見かけるクロゴキブリ(黒褐色。黒光りしている)やチャバネゴキブリ(クロゴキブリより小型で薄茶色),アメリカ南部や沖縄などに生息するワモンゴキブリ(クロゴキブリよりやや大型で,色はクロゴキブリに似ているが,やや薄い)では,性フェロモンと集合フェロモンの化学構造が研究されています。メスが発散する性フェロモンを使えばオスを誘引・捕獲できますが,集合フェロモンだとオスもメスも誘引して捕獲することができるので,防除剤としてはより有効と言えます。しかし,ゴキブリのフェロモンの化学構造は,農作物の害虫である蛾類に比べて複雑であるため,製コストが嵩み,製品化には至っていません。ちなみに,ゴキブリホイホイには,ゴキブリの好む食品の匂い成分がブレンドされており,フェロモンは使われていません。
Q. メチル基のCH3の構造でなければ不斉性原理は成立しないのか。
A. メチル基である必要はありません。一つの炭素原子に4つの異なるもの(原子,または原子の集合体である原子団)が結合していると,その炭素原子は不斉炭素原子になり,一対の鏡像異性体が存在することになります。一つの炭素原子に結合している4つのものが全て異なっていさえすれば,その炭素原子は不斉炭素原子になります。例えば,配布した資料の5ページ目にあるキマルカイガラムシの性フェロモンですと,赤の星印をつけた炭素が不斉炭素原子です。なぜなら,その炭素にはCH3(原子団), H(原子), CH2CH2OC(=O)CH3(原子団), CH2CH=C[CH(CH3)2]CH2CH=C(CH3)2(原子団)という4つの異なるものがついているからです。仮に,CH3が塩素原子(Cl)に置き換わっても,赤の星印をつけた炭素原子には4つの異なるものがついた状態が維持されますので,やはり不斉炭素原子となって,一対の鏡像異性体が存在することになります。メチル基がエチル基(CH2CH3,原子団)になっても,赤の星印の炭素原子は不斉炭素原子です。ちなみに,メチル基が水素原子(H)に置き換わると,星印の炭素に水素が2個付くことになり(同じ原子),4つの異なるものが付いているという不斉炭素原子の要件を満たさなくなりますので,その炭素は不斉炭素原子ではなくなり,鏡像異性体は存在しません(ただ一つの化合物です)。
Q. GMの安全性については問題となっているが,フェロモンの人工合成はそれとは別なのか(それを吸った昆虫への安全性の懸念)
A. GM作物(遺伝子組換え作物)は栽培植物に他の生物の遺伝子を導入した作物です。ご存知かもしれませんが,まず,GM作物の一種である除草剤耐性作物(除草剤をかけても枯れない作物)について簡単にご説明します。植物は,自分が生きていく上で必須なアミノ酸という化学物質を植物体内で作り出していますが,ラウンドアップという除草剤は,そのアミノ酸を作るための多くの連続した工程の一つをストップしてしまいます(正確には,その一つの工程を進めるための酵素の働きを止めてしまいます)。そのため,そのアミノ酸を作り出すことができなくなって,植物は枯れてしまいます(そのアミノ酸が植物の生育に必須であるため)。一方,ある土壌細菌はその同じ一つの工程を進めるための別の酵素を持っており,その酵素はラウンドアップには影響されません。植物に土壌細菌由来の遺伝子(その酵素を作り出すための設計図)を導入すると,植物は,自分の持っている本来の酵素の他に,土壌細菌由来の酵素も作り出します。自分の酵素はラウンドアップで無効になりますが,土壌細菌由来の酵素は影響を受けませんので,その酵素を使ってアミノ酸を作り出す工程を先に進めることができ,生存が可能となります。除草剤耐性作物(ダイズやナタネなど)と雑草が入り混じった畑にラウンドアップを散布すると除草剤耐性作物は,土壌細菌由来の酵素を持っていますので,アミノ酸を作り出し,生きていくことができますが,遺伝子組換えしていない雑草などの植物は,それを持っていないため,枯れてしまいます。かつては,草取り作業は農家にとって大変きつい作業でしたが,除草剤耐性作物ですと雑草の生えた畑にヘリコプターでラウンドアップを散布するだけの簡単な作業で済むようになっています(もっとも,最近の除草剤は,遺伝子組換え作物でなくても,作物は出来るだけ枯らさないで,雑草だけを枯らす選択性を持ったものが多くなっています)。
GM作物の食品としての安全性については,科学的には問題ないとされていますが,植物本来の遺伝子が改変されていますので,それまで無かった未知化合物が作り出される可能性もないとは言えず,その未知化合物が人間に対する毒性を持っていることもあり得ます。そのようなことが起こらないよう,遺伝子の導入は正確に行われているはずで,現在までのところ,毒性を持つ作物ができて人に害があったという確かな証拠はありません。
安全であることを裏付ける実績は積み重なってきていますが,安心できる確かな証明もないというのが現状だと思います。従って,昆虫についても,GM作物を食べた結果,どうなるかは予測できないというのが現状ですが,これまでのところ,世界各地で栽培されているGM作物の蜜を吸ったり,実を食べた昆虫に異変が起こったという科学的報告はありません。
害虫防除に使うフェロモンは,太古の昔から昆虫が作り出して,仲間との交信(異性を誘引したり,仲間を集合させたり,仲間に危険を知らせたり)に使っていた化学物質と全く同じ物質を人間が有機化学を使って純粋に作り出したものにすぎません。人工合成の「人工」という言葉に違和感を感じられたのかも知れませんが,昆虫(自然,天然)が作ろうと人間(人工)が作ろうと,全く同じ物質です。私たちが飲んでいるジュースなどに添加されている香料は,もともとは植物などの香気成分ですが,今は,香料会社で人工的に,純粋に作られたものが使われています。植物に含まれているものと全く同じ物質であり,害はありません。人工フェロモンも昆虫が使っているものと全く同じ物質で,もともとそれを使っている昆虫はもちろんのこと,人間にとっても害はありません。
当日の様子