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【TOHOKU University Researcher in Focus】Vol.009 グローバル化と医学研究 ―感染症コントロールのための疫学―

本学の注目すべき研究者のこれまでの研究活動や最新の情報を紹介します。

医学系研究科 斉藤 繭子 准教授

医学系研究科 斉藤 繭子(さいとう まゆこ)准教授

新型コロナウイルス感染症の突発的な大流行は、2003年に起きたSARS (重症急性呼吸器症候群)の大流行に続き、新興感染症の恐ろしさを世界に思い知らせています。新興感染症に限らず、感染症は治療法の有効性だけでなく、感染予防や流行の阻止も重要な対策となります。そのため、症状を伴わない感染者の把握、流行の予測、感染防止策などを調べる感染症疫学の必要性が高まります。東北大学は、厚生労働省内に設立された新型コロナウイルス対策本部のクラスター対策班に協力しています。

感染症の疫学

疫学の歴史は、1853年のロンドンにさかのぼるといわれています。原因不明で恐れられていたコレラがその年に流行した際、開業医のジョン・スノーが、1つの井戸が感染源であることを、患者の時系列的な発生状況を地図に落とし込むことで突き止めたのです。その井戸を使用禁止にしたところ、コレラの拡大は止まったといいます。井戸が、患者第一号の糞便が混入している汚水に汚染されていたのです。

斉藤さんは微生物学教室に所属し、ノロウイルスを原因とする下痢症を中心とした感染症の疫学的研究をしています。食中毒による下痢症では、腸管出血性大腸菌O-157などの細菌性のものがニュースになりがちですが、世界的に見ると、急性下痢症の最大の原因はノロウイルスだといいます。ときには1000人規模の患者がでる食中毒を引き起こすこともあります。

ロタウイルスもよく似た症状を引き起こしますが、ロタウイルスは培養が可能で予防ワクチンも開発されていることから、予防の目途が立っています。それに対してノロウイルスのほうは、培養法が確立しておらず、商品化されたワクチンもまだありません。ノロウイルスに感染しているかどうかの確実な診断には、糞便中に含まれるノロウイルスの遺伝子をPCRという比較的高価な分析方法を用いて検出する必要があります。

ただし、ノロウイルスが原因の下痢症と判明しても治療法が変わるわけではありません。なので一般的に日本では、症状や集団感染の有無などから診断を下し、ウイルスの検出はせずに治療が施されます。指定感染症でもないので、保健所への報告義務もありません。予防法は衛生管理に尽きます。治癒しても、2週間ほどはウイルスが排出されるため、注意が肝要です。

日本では医療制度が整っているため、ノロウイルスで命を落とすことは稀です。しかし低中所得国では、脱水症状の悪化によって命を落とす例が多発しています。ワクチンが商品化されていない状況でノロウイルスによる下痢症の発生を抑えるためには、衛生状態の改善に加えて、ウイルスの伝播や環境中での維持のされ方を明らかにする必要があります。斉藤さんは、ペルーやフィリピンなどで長期的な研究を続けてきました。

これまでの研究で、RNAウイルスであるノロウイルスは変異しやすいために遺伝的に多様であることがわかっています。そのせいで、治癒して免疫が形成されていても、別の遺伝子型のノロウイルスに感染する繰り返し感染が起こりやすいことも判明しました。

佐賀医科大学(現・佐賀大学医学部)を卒業した斉藤さんは、研修医として同附属病院の総合診療部の研修医となりました。そのときの教授だった福井次矢さん(現・聖路加国際病院院長・聖路加国際大学学長)との出会いが、その後の人生を変えました。ハーバード大学公衆衛生大学院で学んだ福井教授は、総合診療とエビデンス・ベイスト・メディスン(科学的根拠に基づく医療、EBM)の普及に取り組み、後に京都大学で日本初の公衆衛生大学院の創設に尽力しました。斉藤さんはその福井教授の薫陶を得て、アメリカのジョンズ・ホプキンス大学公衆衛生大学院への留学を決意したのです。

グローバリズムと感染症

公衆衛生学は、医学だけでなく疫学、経済学、統計学、環境学、社会学、行動科学、ヘルスコミュニケーションなど、多様な専門分野で構成されています。感染症の予防接種の実施1つとっても、発症リスク、ワクチンの効果、副作用のリスク、経済効率、社会的不安の解消など、多角的な検討が必要なのです。そうした多様な専門分野の中から、斉藤さんは自らの専門分野としてフィールド疫学を選びました。そして結核予防の疫学的研究のために、ジョンズ・ホプキンス大学の研究拠点があったペルーへ赴くことになりました。

当時のペルーには、10万人あたり300人以上の割合で結核患者がいました。斉藤さんは、調査地区の個々の家庭を訪ねまわり、家庭ごとの感染率、感染リスクを調べる疫学調査を続けました。結核の感染者のうち、発症するのは1割程度です。その分、目に見えない保菌者が多数存在することから、疫学調査によって得られた根拠を基にした予防と治療の対策が重要となります。さまざまな研究支援を受けながらのペルー滞在は、最終的に延べ11年に及び、第二の故郷となりました。その後、さまざまな対策が功を奏し、現在のペルーの結核患者は10万人あたり120人ほどに減少しているそうです。

ペルー滞在中の調査対象は、結核から人獣共通感染症のブルセラ症、ピロリ菌(ヘリコバクター)、ノロウイルスへも広がりました。2013年に東北大学着任後は、東北大学・RITM新興・再興感染症共同研究センター(フィリピン拠点)での下痢症の研究を引き継ぎました。

感染症の伝播に関する調査研究だけが疫学ではありません。たとえば、喫煙を続けても必ず肺がんや心臓病にかかるとは限りません。体質や生活環境は一人ひとり異なるからです。喫煙の影響を客観的に評価するには、個々の患者だけではなく、大きな集団を対象に長期的に調査・観察する疫学的な研究(これをコホート研究という)が必要になります。そしてさらに、そうした研究からは、病気にかかる率だけでなく、喫煙が社会に及ぼす影響なども見えてきます。その結果、喫煙には喫煙者個人の問題にとどまらず、社会的な健康リスク、経済リスクもあるという根拠が得られていることから、禁煙や分煙の実施が推進されているのです。

斉藤さんが属する微生物学教室では、押谷仁教授と工学部の大村達夫教授との共同研究で、下水中のノロウイルスなどを検出することで下痢症の流行を予測するモニタリングシステムの開発もしています。それが実現すれば、食中毒の流行を効果的に抑えられる可能性があります。

新型コロナウイルスの流行で突如注目を浴びた感染症対策ですが、日頃からの研究や人材育成が大切です。グローバル化が進む中で、感染症が拡大する危険は避けて通れません。それは、低中所得国のみならず、日本の問題でもあるのです。

東北大学の優秀女性研究者を顕彰する2019年度「紫千代萩賞」を受賞した斉藤さんは、感染症疫学の発展に寄与するだけでなく、多角的な視点で科学的根拠に基づく医療を実践できる人材の育成にも尽力しています。

文責:広報室 特任教授 渡辺政隆

2014年に西アフリカでエボラウイルス感染症が流行した際は、WHOの要請に基づいて大学からシエラレオネに派遣された。その際のミーティングのひとこま。

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問い合わせ先

東北大学総務企画部広報室
E-mail:koho*grp.tohoku.ac.jp(*を@に置き換えてください)

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