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【TOHOKU University Researcher in Focus】Vol.022 日本人の先祖崇拝

本学の注目すべき研究者のこれまでの研究活動や最新の情報を紹介します。

東北大学大学院文学研究科 問芝志保准教授

大学院文学研究科・文学部 問芝 志保 (といしば しほ)准教授

日本人は信仰心が薄いと言われています。しかしその一方で、お盆やお彼岸の墓参りは欠かささない人がたくさんいます。あえて意識していなくても、これも宗教実践にちがいありません。さらには、墓参りは日本古来の伝統儀式ではないと聞いて驚く人は多いのではないでしょうか。問芝さんは、祖先崇拝(先祖祭祀)、墓の近代以降の歴史を研究しています。

江戸の庶民は墓参りをしたか

時代劇を見ると、町外れの野辺や河原に石がぽつんと置かれただけの墓が登場します。その一方で、上野寛永寺の墓地のように江戸時代から続く立派な墓もあったりします。江戸の墓事情はどうだったのでしょう。

問芝さんによると、江戸時代初期に、キリシタンではないことの証明としてどこかの寺の檀家となる寺請(てらうけ)制度、今で言う住民登録が始まりました。それで檀家となっている檀那寺がその家の葬儀を担うようになりました。それがやがて家を継ぐ、墓を継ぐという家制度に発展したのだそうです。

しかし実際に墓を代々継ぐことができるのは、金持ちや名家などの特権階級だけでした。江戸では、檀那寺へのお布施が3年間滞ると無縁墓にされて整理されてしまっていたからです。ましてや江戸の人口の圧倒的多数は跡継ぎのいない独身男性でした。なので寺としても、幕府の都合で移転させられたり、墓地が足りなくなるとその上に新しい墓を作り直すということをしていました。東京の再開発で地面を掘ると古い墓の跡が見つかるのはそういう事情もあるからだといいます。

そういうことなので、江戸に暮らす一般庶民に、先祖代々の墓にお参りするという習慣があったと想定することは難しいのです。それでも立派な墓を建てた富裕層のあいだでは、家の墓を守るという意識が芽生えました。つまり、家の墓を受け継ぐことを中心とする祖先崇拝は必ずしも古来からの日本の伝統とはいえません。その実態は社会階層や地域、時代によって大きく異なり、江戸東京の場合でいえば、近世中期以降に、一部の階層から始まった比較的新しい習俗ととらえたほうがよいとのことです。

しかし私たちは、親族の墓をお参りして故人を偲ぶのは日本人の皆にとって自然な習慣だと思っています。なぜなのでしょう。

じつはこの習慣の普及には、明治政府の国策が大きくかかわっているのだそうです。問芝さんは、現在のような祖先崇拝や墓の形式がどのように形成され、どう変遷してきたかという歴史に興味を持ちました。

近代化と都市整備

明治政府は、西洋の文化や制度を取り入れることで近代国家としての体裁を整えようとしました。その中で宗教をどうするかが問題となりました。一時は神道国教化の動きもありましたが結局はうまくゆかず、最終的には信教の自由が大日本帝国憲法に盛り込まれました。かといって神道を捨てるわけにもいきません。万世一系の天皇制は、日本を家族国家として位置づける、他国にはない独特の誇るべき文化であり、先祖を祀ることには、皇室にもつながる壮大な背景があると自負していたかったからです。

神道以外にも、日本古来の信仰は山や樹木を崇拝するアニミズムに裏打ちされており、太陽崇拝や死者の霊を敬う気持ちも根付いていました。しかし当時西洋で展開されていた社会進化論的な宗教学では、プロテスタントを高等な宗教とみなす一方で、アニミズムや祖先崇拝などを原始的な「遅れた」宗教として位置づけていました。

そこで渋沢栄一の娘婿で明治民法の起草者にして東京帝国大学教授だった穂積陳重(のぶしげ)が登場します。祖先崇拝は万世一系の天皇をいただく民族国家日本なればこそ保持している習俗であり、それが社会統合に寄与することで近代国家にいち早くなり得たのだという説を唱えたのだそうです。

その後、学校教育にも、日本人は「先祖を祀る国民」であるという考えが取り込まれたといいます。森林に恵まれ四季のある島国の中で育まれたとされる独特の稲作文化・武士道・家族制・祖先崇拝・忠孝の精神なるものが修身の授業で教えられ、そのなかで墓参りも奨励されるようになりました。言うなれば、学者が作り上げたフィクションの実装化が進められたのです。

その一方で、墓地の整備も進められました。それまで各地の多くの墓地は荒れるにまかせた状態でした。そこでとりあえず、西洋人が多く訪れる東京・大阪・京都(三府)、横浜・神戸・長崎・函館・新潟の五港で墓地の近代化が図られました。墓地の設置場所が制限されると同時に、墓の永久保存が法律で定められました。

それでも墓地の整備はなかなか進みませんでした。大きな転機となったのが関東大震災だったそうです。崩壊した東京を復興するにあたり、東京市(現在の都区部に当たる地域)は、かねてから構想していた都心の寺院墓地の郊外移転を進めようとしました。しかし寺院側は強硬に抵抗し、結局は墓地の面積を3分の1に縮減する案で双方が妥協しました。ただし、無縁墓の墓じまいが大変だから遺骨を土に返さない墓にしろという条件付きで。それで登場したのが、個別の墓に納骨堂の機能をもたせた、地面の基礎を固めて石材を乗せるカロート式と呼ばれる現在の墓なのだそうです。

カロート式の墓は、昭和初期までに都心の寺の墓地に行き渡り、それに続く人口増加で造成された霊園にも普及しました。さらには、戦後の戦災復興で地方都市にも普及し、高度成長期に次々に造成された郊外霊園では墓の区画とカロート式墓石がセット販売されました。そして90年代にはカロート式がほぼ全国に行き渡ったのです。

スピリチュアル

問芝さんが大学に入学した2002年当時、社会では自然葬や樹木葬、お骨をペンダントなどに入れる手元供養といった新しい弔い方が話題になり始めていました。問芝さんは、そうした宗教性の変遷に目を向ける中で、お墓のあり方にも興味が湧いたといいます。国民統合と都市整備のために導入された先祖崇拝と墓の形式が、世の中に新たな風潮をもたらしたことに、問芝さんは注目します。

石を置いただけの昔の墓は、いつか詣でられなくなって当然とされていたので、墓の形や向きなどはさほど重要視されていませんでした。ところが昭和初期に恒久的なカロート式の墓が普及する中で、手相ならぬ墓相ということが言われ始めたのだそうです。新しい墓の形式の出現と世相を覆う不安感とが関連し、こんな形の墓を作ると先祖が祟る、あなたや家族の不幸は墓の祟りだとする考え方が生まれました。そして戦前には、こういう墓を建てれば家の運命は好転すると説く宗教家や占い師も登場したといいます。

そうした風潮は60年代、70年代にも再燃し、有名な占い師や霊能者がテレビでもてはやされたのは記憶に新しいことでしょう。それと同時に、高度成長期からバブル期にかけて新宗教が増え、一部では先祖の祟りが強調されました。地方から都市に出てきて、故郷に墓を残し、仏壇をもたない人たちの後ろめたさと結びついたのかもしれません。

今日では、新たな問題も浮上しています。新規の墓地造成は法律的にも制限されています。就職氷河期世代・ロスジェネ世代で独身の上に経済的にも厳しい人たちが50歳を迎え、墓の新設や維持に困難が生じています。新型コロナウイルス感染症のせいで、看取りや葬儀の形も変わっています。都市部では、通夜を省略した1日葬も増えています。親族の十分な弔いができない状況の中、儀礼を通して気持ちを落ち着けることができなくなったことの喪失感をどうしたらよいのでしょう。これは大きな社会問題でもあります。

問芝さんは、宗教学者として、知れば知るほど興味深い上に、難しくもあり奥深い宗教の問題を、今後も問い続けたいと思っています。

文責:広報室 特任教授 渡辺政隆

問芝さんはついつい、さまざまな宗教・民間信仰関連の小物を集めてしまう

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東北大学総務企画部広報室
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