第1章
女子大生の始まり

女性の大学進学は
東北大学からはじまった

1913年(大正2)8月、3人の女性が東北帝国大学への入学が許可されました。日本で初めての女性「大学生」となった彼女たちの名前は、時代を切り拓いた女性として、1世紀を経た今も語り伝えられています。合格者が官報告示された8月21日について、日本記念日協会は2020年(令和2)から女子大生の日として登録しました。また、2021年には、UNESCOの「世界の記憶」の 'Women in History' Online Exhibitionに東北大学のWomen’s Student Record in Japan's Higher Educationが選出されています。

彼女たちが東北帝国大学に入学した当時は、東京・京都・東北・九州の四つの帝国大学のみが正規の「大学」と認められていた時代であり、その帝国大学には、旧制高等学校の卒業生のみが入学できる原則でした。当時の女性はそもそも帝国大学への進学コースそのものから排除されていたのです。しかし明治後期になると、女性にも大学レベルの高等専門教育の道を開くべきだという議論が、反対論と対峙しながらも次第に強くなってきます。1913年の東北帝国大学への女性の入学もまた、こうした近代女性史の流れの中に位置する出来事でした。
 ではなぜ東北帝国大学だったのか。それは、当時この大学が、できたばかりの新米大学だったことが関係しています。東北帝国大学が誕生した20世紀初頭、日本の大学は転換期を迎えつつありました。3番目の新しい帝国大学である東北帝国大学がその存在感を発揮していくためには何が必要か。そんな模索の中から生まれたのが、旧制高等学校出身者以外に対する「門戸開放」の方針であり、それを発展させた、女性への「門戸開放」でした。これらの方針は、その後も東北帝国大学、そして東北大学の基本方針として、永く受け継がれているものです。

官報掲載案(牧田らくの名がみえる)

官報掲載案
(牧田らくの名がみえる)

東北帝国大学が先導した
「門戸開放」による変化

図の黒矢印は、東北帝国大学創設以前の中等教育までのフロー、および青矢印は「正系入学(=高等学校からの進学)」のフローです。赤い矢は東北帝国大学が先導して整えていった「傍系入学」制度により変化した教育フローになります。当時、帝国大学への進学がほぼ保証されていた高等学校に対し「傍系入学」制度はより多くの人に学びの機会を与えるだけでなく、学校の発展にも影響を与えました。(東北帝国大学ではこのほか、志望学科の中等教員免許状の所有者にも受験の機会を設けていました。)

「正系入学」

門戸開放により入学可能に
=「傍系入学」

「門戸開放」による変化

「正系入学」

門戸開放により入学可能に
=「傍系入学」

入学試験のエピソード

1913年(大正2)年8月、東北帝国大学理科大学(現:理学部)の入試会場には、4人の女性の姿がありました。試験は8月8日に体格検査、9日に一次試験、10日から12日まで二次試験(選抜試験)がおこなわれています。二次試験では筆記試験に加え、各学科の担当教授自らがおこなう口頭試問もありました。試験は順調に進みましたが、入学試験の最中の8月9日、文部省から東北帝国大学総長にあてて、文書が届きます。

文部省から届いた手紙は、「元来女子を帝国大学に入学せしめることは前例これ無き事にてすこぶる重大なる事件」であるとし、東北帝国大学が女性の受験を認めていることについて事情説明を求めるものでした。

一方、東北大学は、8月13日付けで作成されたこの年の合格者名簿を、翌日文部省に送付、同時に本人達に合格通知を発送することになります。その中には3名の女性が含まれていました。

この3人の合格については8月16日に新聞で報道され、「女子学生」の誕生が大きな話題を呼ぶことになります。その後、東北大学が文部省からの文書による照会に対応したのは、8月21日には官報で合格者が正式に公表された後、8月25日になってからでした。この日、東北帝国大学は総長が文部省をおとずれ文部次官に面談、東北帝国大学は3人の女性への入学試験を認め、選考を経て大学入学を許可する方針を堅持することになったのです。

女性の東北帝国大学受験に関する文部省から大学への照会(東北大学史料館所蔵)

女性の東北帝国大学受験に関する文部省から大学への照会
(東北大学史料館所蔵)

入学試験の日程

入学試験の日程

3人の女子学生がたどった道

黒田チカと牧田らくは1916年(大正5)に卒業し、日本で初めて女性として東北帝国大学理科大学の学士号を得ることになります。丹下ウメは2人に遅れること2年、学生時代休学をはさんで卒業、そのまま東北帝国大学の大学院に進学します。丹下はさらに助手となった後に、1921年(大正10)アメリカに留学、留学生活は8年におよび、米ジョンズ・ホプキンス大学の学位を得て帰国します。その後は母校であった日本女子大学校の教授となり、あわせて理化学研究所にも所属、1940年(昭和15)には博士号を取得し、女性科学者のパイオニアとなりました。

黒田チカは卒業後、東京女子高等師範学校に戻った後、丹下同様に海外での研究を志向し、1921年(大正10)、イギリスに留学、帰国後は理化学研究所にも所属し、1929年(昭和4)に女性としては二番目の博士号を取得します。その後も天然色素の研究や、タマネギの皮に含まれるケセルチンの血圧降下作用に関する実用研究にも成果をあげていくことになります。

牧田らくも卒業後、東京女子高等師範学校に戻ります。1919年(大正8)に洋画家・金山平三と結婚後は、東京女子高等師範学校を辞職、金山平三をサポートし続けることになります。

化学科集合写真1918年(3列目右側に丹下ウメ)

化学科集合写真1918年(3列目右側に丹下ウメ)

数学科集合写真1916年(中段左側に牧田らく)

数学科集合写真1916年(中段左側に牧田らく)

化学科集合写真1914年(中段右側に黒田チカ)

化学科集合写真1914年(中段右側に黒田チカ)

文責:東北大学史料館 加藤諭准教授