第3章
女子大生の広がり

文系学部が果たした役割

東北大学が先導した、日本初となる女性の大学生誕生は、大きな話題をともない、わが国における女性に対する高等教育の門戸開放の先駆的な事例として、大きな影響を与えていくことになります。

とはいっても、女性たちにとってまだまだ、大学への進学という選択は限定的なものでした。先駆的な試みをおこなった当時の東北帝国大学では、1918年に卒業した丹下ウメが大学院に進学するなど、さらなる研究に従事する環境を整備していきましたが、女子大生の入学は、1913年の黒田チカ、牧田らく、丹下ウメ、3名の後はしばらく途絶えてしまうことになります。
 この間、聴講生としての女子学生の受け入れはあったものの、再び、東北帝国大学に本科生として女性が入学するようになっていくのは、1923年のことでした。この年から東北帝国大学では毎年コンスタントに女子大生の入学者がみられるようになります。その起爆剤となったのが、法文学部の設置でした。東北帝国大学では1922年に法文学部が設置され、それまでの理学部、医学部、工学部に加えて、文系学部を擁することになり、名実ともに総合大学としての歩みを進めていくことになります。1945年までの間に、東北帝国大学は理系において25名の女子大生が入学していくことになりますが、一方で、文系においては、104名が入学しており、法文学部の設置が大きな役割を果たしていったことが分かります。

1930年代頃の法文学部1号館

1930年代頃の法文学部1号館

1930年代頃の法文学部2号館(現:会計大学院研究棟)

1930年代頃の法文学部2号館
(現:会計大学院研究棟)

1930年代頃の法文学部1号館

法文学部では女子大生同窓組織「芝蘭会」も生まれた
写真は1936年頃の「芝蘭会」の会合の様子

1930年代頃の法文学部2号館(現:会計大学院研究棟)

1939年頃の「芝蘭会」会合
中央は1936〜1941年に法文学部長を務めた
英文学者の土居光知

東北大学初の
文系女子大生

それでは東北帝国大学法文学部に入学してきた草創期の学生はどのような人物であったのでしょうか?1923年に東北帝国大学初の文系女子大生となったのは、法文学部第一期生として1923年に入学した久保ツヤ(旧姓黒瀬)、櫻田フサ(旧姓磯貝)の2名でした。彼女たちは、本科生として帝国大学初の文系女子大生でもあります。

久保ツヤは東京生まれで、1916年に東京女子高等師範学校を卒業後、東京女子高等師範学校、東洋英和女学校、普連土女学校などで勤めた後に、東北帝国大学法文学部に入学します。法文学部では心理学を学ぶ大学生である傍ら、仙台にいた在学期間中、宮城女学校で教鞭をとっていました。東北帝国大学卒業後は札幌北星女学校に奉職、第二次世界大戦後は東京家政学院短期大学の教授になりました。

久保ツヤ

久保ツヤ

櫻田フサは東京生まれで1919年に東京女子高等師範学校を卒業、東京女子高等師範学校、青山女学院での勤務を経て、東北帝国大学法文学部に入学しています。法文学部では哲学を学び、後に実践女子専門学校教授となりました。

久保、櫻田の2名はいずれも大学生当時、居を仙台に移し勉学に勤しんでいますが、入学した1923年は9月に関東大震災が発生した年です。東北大学史料館に残る学籍の記録を見ると、両名とも東京女子高等師範学校時の成績等は消失したとあります。実家が被災を受ける等の苦労を乗り越えて勉学に励み、卒業していったものと思います。

櫻田フサ

櫻田フサ

久保、櫻田の2名はいずれも大学生当時、居を仙台に移し勉学に勤しんでいますが、入学した1923年は9月に関東大震災が発生した年です。東北大学史料館に残る学籍の記録を見ると、両名とも東京女子高等師範学校時の成績等は消失したとあります。実家が被災を受ける等の苦労を乗り越えて勉学に励み、卒業していったものと思います。

海外出身者への門戸開放

また、東北帝国大学に入学した女性は、日本人学生だけではありません。海外出身者としては、1927年に辛義敬(しんぎけい)が法文学部に入学しています。辛はソウル・梨花女子専門学校の出身で、法文学部では西洋史を学ぶことになります。当時、朝鮮半島では、京城帝国大学以外に大学は認められておらず、また女性の進学の道も事実上閉ざされていました。そうした環境にあって、東北帝国大学は辛義敬の入学を認め、これが朝鮮人女性初の帝国大学入学者となります。東北帝国大学は創立以来の方針である「門戸開放」策を海外出身者にも適用し、彼女たちに進学のルートを開いていったのです。

辛義敬(しんぎけい):アメリカ軍政において韓国初の女性議員となり、1990年には建国勲章を授与された。

辛義敬(しんぎけい)

辛義敬
(しんぎけい)

文責:東北大学史料館 加藤諭准教授