歴史の
新たな1ページ
1913年8月8日~12日、
いよいよ4名は受験に臨むことになりました。
それぞれの受験の流れは
以下のようなものでした。
1913年8月8日~12日
受験当日
■黒田チカ、丹下ウメ
/ 化学科を受験
8月8日午前8時より体格検査、9日午前8時より入学試験(英語・ドイツ語・フランス語から一科目選択)、10日午前8時より選抜試験(化学一般)
■江澤駒路
/ 物理学科を受験
8月8日午前8時より体格検査、9日午前8時より入学試験(英語・ドイツ語・フランス語から一科目選択)、10日午前8時より選抜試験(物理学一般)
■牧田らく
/ 数学科を受験
8月8日午前8時より体格検査、9日午前8時より入学試験(英語・ドイツ語・フランス語から一科目選択)、10日午前8時より微積分、11日午前8時より解析幾何、12日午前8時より力学

入試問題の一部(力学)
この間、8月9日には澤柳政太郎に代わって、第二代総長となっていた北條時敬総長へ、松浦鎭次郎文部省専門学務局長より「元来女子ヲ帝国大学ニ入学セシムルコトハ前例無之事ニテ、頗ル重大ナル事件ニ有之、大ニ講究ヲ要シ候」と、前例のない女性の大学入学に関する照会の文書が発出されましたが、受験が取りやめになることはなく、最後まで実施されることになります。

北條時敬
1913年8月13日
-合格判定
東北帝国大学では、8月13日に入学許可の官報掲載案が作成され、黒田チカ、牧田らく、丹下ウメの3名の合格判定がなされます。理科大学学長(現在の理学部長)の小川正孝、総長の北條時敬が決裁し、翌14日に官報掲載案が発送されることになりました。
※また江澤駒路も東京女子高等師範学校の教員を続けながら、大学進学の志を持ち続けることになります。(読売新聞1915年4年15日談)

小川正孝
1913年8月16日
-新聞報道
東京朝日新聞、読売新聞、東京日日新聞などが一斉に東北帝国大学に女性が入学することを報じることになります。正式な官報による合格発表(入学許可)が告示される前のことでした。当時の報道を抜粋します。
「三女史大学に入る 入学試験好成績
我帝国大学創設以来未だ曽て無かりし事とて一時世人の注目を惹きたる女高師助教授牧田らく、同黒田ちか、同江澤駒路、女子大学教授丹下むめ(※丹下ウメ)の四女史が東北大学入学志願の件は許可を得て入学試験に応じ江澤駒路を除くの外三名は(中略)愈入学を許可せられ十六日の官報を以て発表せらるべく何れも成績良好なりしと(一部省略)」(東京朝日新聞)
1913年8月21日
-入学許可の官報告示
一部の新聞報道では8月16日にも官報告示があるとされていましたが、8月16日に合格発表の官報告示はなく、実際に官報に東北帝国大学の入学許可が掲載されたのは、8月21日のことでした。黒田チカ、牧田らく、丹下ウメの3名はこの日、正式な入学許可を受けることになります。日本において、初の女性の大学生が誕生した瞬間でした。
同日この間の状況について、以下のような新聞報道がなされています。東北帝国大学の決断は、歴史の新たな一ページを刻むことになったのです。
「北條総長は(中略)文部省に対しても入学許可の告示を発表されたき旨、官報原稿を送付し来れり。(中略)正しく試験の上採用したるものにて本科生として取り扱はれたりとの申告に接しかば、(中略)今や発表せざる訳にもいかず、遂に二十一日の官報にて告示することとなりたる次第なり」(東京日日新聞)

官報①

官報②
「北條総長は(中略)文部省に対しても入学許可の告示を発表されたき旨、官報原稿を送付し来れり。(中略)正しく試験の上採用したるものにて本科生として取り扱はれたりとの申告に接しかば、(中略)今や発表せざる訳にもいかず、遂に二十一日の官報にて告示することとなりたる次第なり」(東京日日新聞)

小川正孝

官報①

官報②
文責:東北大学史料館 加藤諭准教授